頑張ろうと言える力
復職してから8か月と少しが過ぎた。今の部署にもだいぶ慣れ、仕事も少しずつ任されるようになってきたところだ。
はっきり言ってこんなに毎日を穏やかに過ごせるようになるなんて思っていなかった。前の部署には不満はあれど、辞めたいと思うほどではなかったし、まだ頑張れると思っていた(実際主治医にもまだ頑張れると主張して叱られた)。
わたしは見栄っ張りでええかっこしいなので、しんどくても頑張ってしまう。心の底ではすごく嫌でも、出来ない人間だと思われるのが怖くて、出来ます、やります、わたしがやりますから大丈夫です、と必要以上になんでもかんでも背負ってしまう。
と、休職中にやっと思い知った。ほんとうはそんなに頑張らない方がよかったのに。
頑張ることは基本的には美徳だとされる。それはそう。こいつほんとうに頑張らねえな、と思う相手をひとは評価しない。ただし特別な才能のあるひとは除く。
その特別な才能がわたしにはなくて、それがきっと実はものすごいコンプレックスで、誤魔化すために、出来る人間だという評価を求めすぎていたのだと思う。
要するに自己承認欲求を満たすために、自分の身を削っていた。他にどうしたらいいのかわからなかった。
今の部署に異動になって、わたしはもともと訳ありできたひとというポジションを手に入れた。それは悲しかったし、辛かったけれど、上司も同僚もそこに触れることはあまりなかった。こっちが拍子抜けするくらい。
しばらくして、普通に仕事を振られるようになった。もちろん過重な労働ではなくて、他のひとと同じように段階を踏んで覚えていく仕事だった。
上司はわたしに、体調さえ問題ないのならば、うちで戦力になって欲しいと言ってくれた。こんな温い働き方をしている、と思っていたのはわたしだけで、それなりに評価されていたとわかり、途端にエネルギーがわいてきた。
わたし、仕事出来なくない。頑張りすぎなくらい頑張らなくても、ちゃんと仕事出来る。
そのことがわたしの自信になった。
同僚たちはみんな穏やかで、どんなに忙しくても苛々した態度をとらなかった。忙しいね~っと苦笑いをしながら話すことはあったけれど、ピリピリした空気になったところを見たことがない。それがすごく救いだった。
今の環境に満足しているし、同時にもう前のようには頑張れないだろうなとも思う。
なんにしろ、世間には疲れているひとがたくさんいる。
やりたいことはいっぱいあっても、生活するためにはやりたいことだけやってはいられないし、そうしているうちに結局そのやりたいことをやる時間や体力が削られる。本末転倒だと思いながらも、日々、今日も頑張ったわたし、という満足感はその事実をうまく誤魔化してくれることがある。
社会に必要とされてるわたし、とか、手を抜かないわたし、とか、ちゃんと自立しているわたし、とか、ひとによって言い方はいろいろあると思うけれど、どれもなんとなく無理をしている自分に言い聞かせる言葉なのかもしれないと最近思う。
ていねいな暮らし的な意識高い話ではなく、日常の中に、それは潜んでいる。
自分の思う「頑張る」と実際の「頑張り」はちゃんと釣り合っているだろうか。
いつの間にかわからなくなっていることが多くて、必要以上に頑張ってしまっていないだろうか。
頑張りたい、と思う気持ちはだいじ、頑張ってる自分を褒めるのもだいじ。
でもここぞという場面で「よし、頑張ろう」と言うときって、同じ頑張る気持ちだっただろうか。
以前ブログでメンタル回復のためにやったことを書いたのだけど、実を言うとあの中にあったものの多くは現在はもうやめてしまっている。
手帳に日記を書くのも義務みたいに感じてストレスだったのでやめたし、お花を飾るのも部屋で過ごす時間が短くなったのでやめた。断捨離はもう捨てるものもないし、じゃんじゃんお金を遣うようなこともやめた(最近少し家計の見直しをしている)。
生きていくうえで、そんなになんでもかんでも真面目にやらなくても、また始めたくなったらやればいいし、もう嫌だと思ったらさっさとやめてしまえばいい。
と、考えるようになったら毎日がすごく楽になった。奇跡の大復活だった。
今しんどいひとたちに、何か伝えたくてこれを書いたわけではなく、たぶん自分でいつかわかるときが来るんだと思う。頑張ったら疲れる、そんなの当たり前のことだから。
その中で、自分がほんとうに頑張りたいところで力を出せるようになったら、きっとなんとなく元気に過ごせるようになる、といいなあと思いを馳せる。